綺麗ごとじゃなくて

キラキラした世界じゃなくて自分の悪いところをあえて書いていく、もっと泥臭いことを書いていくのは、世間に見捨てられるんじゃないかって不安になるけれど、もうすでに見放されてるんだったら怖いものはなし。何かを恐れていたら始まりも終わりもない。個人的な感想が炎上してもしなくても、誰かの目に触れようと触れまいとどうでもいいことで、これは私の生きた記録として自分の癒しになればそれでいいんだ。そういうことを気にしすぎる世の中はおかしい。人のことをとやかくいう輩の根は臆病者だ。という私自身がいちばんの臆病者なのかもしれない。

職人技の伝統工芸の世界は、タイパもコスパも割に合わないと思う。特にBatikは手法において、他の染色(例えば型染め)より断然手間やコストがかかる。昔はそれしか方法がなかったからそれでよしとしても、現代社会においては本来の存在理由が否定されてしまう。それでもなぜいまだに存在するのかは、人間の文化活動としての価値観・体験と共感に重きが置かれているからに他ならない。私はBatikの手仕事は好きだけど、人付き合いが苦手で一人でいる方が気楽なタイプ。これを体験と共感(教室)の仕事として生計を立てるには、かなりハードルが高く二の足を踏み踏み。かといって出不精も相まり、こもって制作活動ばかりだと鬱々してくる。これを超えられないのが私の弱み。

そして色々やってみたいことが出てくるとそちらに気持ちを持っていかれてしまう性格。でもそれも自分に合わないことより、自分の興味があることに徐々に方向転換して次第にフィットしてくるんじゃないかと言い訳してみたり。よく手段を間違えると目的にたどり着けないと言われるけど、私の求めるところはBatikの講師になることでも職人になることでもないらしい。漠然と感じてはいたが、ここに来て探していた答えがより具体的になってきつつあると思う。もちろん職人や講師も憧れ尊敬するけれど、それだけをずっと続けていくのは私には無理みたい。海に浮かぶクラゲのような生き方だけど、それでも同じところを漂ってるだけではないのが私の強み。

別に理解してもらえなくて構わないし、人のために生きるのはすごくリスペクトするけれど、まず自分のために生きていきたいと思う。自分を幸せにできるのは自分しかいないから。私が幸せに生きることが、誰かの幸せになると嬉しいと思う。これを利己的と捉えるならそう思ってくださって結構です。今の世の中はあまりにも善意を押し付けているようで好きになれない。そういう感情は自らの心の中からやってくるものじゃないのかなと思う。

TOP